経済分析第137号
アジアにおける市場経済への移行

1994年12月
下村 恭民
(経済企画庁経済研究所客員主任研究官、埼玉大学教授)
高阪 章
( 同 客員研究員、大阪大学教授)
朽木 昭文
( 同 客員研究員、アジア経済研究所主任調査研究員)
成相 修
( 同 客員研究員、麗澤大学教授)
杉田 伸樹
( 同 研究交流部長)
保坂 新悟
( 同 行政実務研修員、北九州市)
三平 剛
( 同 主任研究官付)
土川 裕之
( 同 委嘱調査員、関西電力)
常川 素以
( 同 行政実務研修員、札幌市)
内川 宗和
( 同 委嘱調査員、中部電力)

(要約)

  1. この研究は、アジアの旧中央計画経済諸国の市場経済への移行を分析したものである。中国やベトナムの順調な経済発展と良好なマクロ経済パフォーマンスが注目されるとともに、アジアでの市場経済移行の順調さにも目が向けられるようになってはいるが、東欧・旧ソ連での市場経済移行に関する総合的な分析は数多いのに対して、中国やベトナムを個別にとりあげた例は多いものの、アジア地域での市場経済移行を総合的に見た資料はそれほど多いとは言えない。この状況を少しでも改善したいというのが我々の狙いである。なお、分析に際しては、できるだけ東欧・旧ソ連との国際比較を視野に入れるように努めた。

    アジア諸国といっても、ここで取り扱っているのは中国、インドシナ三国、及びモンゴルの五ヵ国である。中央アジア諸国は情報・資料の制約から、ミャンマーはその改革がまだ極めて初歩的段階にあることから、残念ながら本研究の対象外とした。

  2. 市場経済移行は、しばしば経済改革と表現される。IMFや世界銀行は「市場指向型改革」という表現を好んで使う。ただ、これが市場経済移行の本質を若干あいまいにしていることに留意する必要がある。本来、経済改革は市場経済移行よりもかなり広い概念だからである。

    経済改革に含まれる概念としては、(1)先進国経済の活性化をめざす規制緩和など市場原理の強化、(2)途上国に広く見られる過剰な規制や政府介入の排除の試み(「構造調整」)、(3)計画経済の枠内で権限委譲や利潤インセンティブの導入を行って効率化・生産増加を目指す体制内改革の運動、(4)経済体制の基本原則を指令経済から市場原理に切り換える市場経済移行などがある。検討に際して、あらかじめ、これらの性格の違いを踏まえておくことが重要である。アジアで注目されるのは、体制内改革から市場経済移行への長期にわたる連続的な展開が広く見られることであり、これがアジアでの相対的に円滑な移行に貢献していると考えられる点である。

  3. アジアの状況を観察すると、一口に市場経済移行といっても非常に多様だということがわかる。幾つかの代表的な側面を挙げてみよう。

    中国やベトナムでは共産党の支配が持続しており、経済改革と政治的改革とは切り離されているが、モンゴルでは両者が平行実施された。

    経済改革が開始される前の経済社会の状況(「初期条件」)も国ごとに大きく異なっている。「世界で二番目に古い共産国家」と呼ばれたモンゴルでは中央計画体制が65年以上続いたが、ベトナム全土が計画経済の体制下に統一された(1975年)のは、(後に市場経済移行につながっていく)経済改革が開始されるわずか4-5年前のことであった。当然のことながら、計画経済体制を経験した期間が長いほど農業集団化や国営部門が浸透しており、改革や移行に伴う痛みは激しい。この点でモンゴルとベトナムの中間に位置するのが中国である。

    中央計画経済体制が確立する前の経済社会の状況も重要な初期条件である。(臨海部)中国や南部ベトナムがある程度発達した市場経済の時期を経験していたのに対し、基本的に遊牧民族社会であったモンゴルは市場経済の経験を著しく欠いており、ルールの変更への適応は容易でない。

    東欧・旧ソ連と比べてアジアの移行国では農業の比重が大きい。ジェフリー・サックスによれば、改革直前(1978年)の中国では就業者の7割が農民であったが、ペレストロイカ直前の旧ソ連では14パーセントに過ぎなかった。

    国際関係の初期条件の違いも顕著である。モンゴルではコメコン体制への依存度が極めて高かったが、これは価格体系の歪みの深刻さと経済改革の負担の大きさを意味している。モンゴルほどではなくとも、ベトナムもコメコン体制との密接な関わりという点で不利な初期条件を持っていた。中国はこの点で著しく有利であった。他方、中国やベトナムは東アジアのダイナミックな経済発展に色々な形のアクセスを持つ立場にあり、これら近隣諸国の経済的成功の外部経済を享受することができた。

  4. このような多様性にもかかわらず、アジアの移行経済には二つの特徴的な共通点が見出される。第一に、経済改革と市場経済移行の連続プロセスにかなり長い期間をかけたことが挙げられる。中国、ベトナム、ラオスの三ヵ国では1970年代後半から体制内改革が着手され、最終的にこれが市場経済移行につながった。例外がモンゴルである。

    第二に、東欧・旧ソ連と比較してはるかに良好なマクロ経済パフォーマンスが記録されている。経済成長と物価の両面でアジアの優位は顕著であるが、特に中国やベトナムの持続的成長と東欧・旧ソ連の生産の落ち込みは対照的である。この点でもモンゴルは例外であり、東欧・旧ソ連とよく似た状況が見られる。

    それでは、どのような要因がアジア移行国(モンゴルを除く)のマクロ経済の好調さを生んだのだろうか。前述の初期条件の有利さや東アジアのダイナミズムの好影響が寄与していることは明らかである。同様に、改革あるいは移行のアプローチが適切だったことは無視できない要因である。

    中国、ベトナム、ラオスでまず着手されたのは農業改革であった。就業者の大半を占める農民にインセンティブを与えることによって生産を引き上げ、実物経済部門の足場を強固なものにし、改革に関する施策を導入しやすくする意味があった。

    これらの国々で取られた改革アプローチは、段階的、部分的、試行錯誤的であったと表現される。東欧・旧ソ連のアプローチとの根本的な相違は、体系的な青写真を持たずに改革に着手し、長い時間をかけたことであった。「漸進主義」と呼ばれるこのアプローチには色々な短所もあるが、二つの大きな長所が認められる。第一は、経済運営のルールの性急な変更が避けられるため、経済に及ぼす改革の負の影響、特に生産活動に与えるショックが相対的に少ないことであり、第二は、現実の推移を観察しながら柔軟に方針を変更できる時間的な余裕があることである。中国やベトナムで初期の段階で試みられた各種の体制内改革の成果が、実物経済部門の安定を通じて、その後の本格的な市場経済移行を可能にしたと見ることもできる。

    中国とベトナムに共通している特記すべき特徴は、国有企業の急激な改革、特に急速かつ大規模な民営化を避けていることである。これを厄介な問題の先送りであるとする見方もありうる。しかしながら、その間に民間部門が高成長しているため、国営部門の不振という問題点のマグニチュードが経済全体の規模に比較して次第に縮小してきていることも事実である。

  5. 市場経済移行についての重要な論点の一つは、移行のスピードとシークエンスに関する「ショック・セラピー」(「ビッグ・バン」あるいは「急進主義」アプローチとも呼ばれる)と漸進主義の間の選択である。アジアの経験は明らかに漸進主義が一定の条件下で一定の成果を挙げうることを示唆している。

    もっとも、この二つのアプローチを過度に対立させて扱うことは建設的でない。移行の過程にはショック・セラピーが効果的なテーマ(例えば超インフレの克服など)がある一方で、じっくり時間をかけざるをえないテーマ(例えば国営企業の改革、特に民営化)も存在する。二つのアプローチを適切に組み合わせることによって、政策手段の選択の幅が広がるだけでなく、より効果的な移行戦略が期待できる。この二つのアプローチを特に巧みに組み合わせているのが、1989年以降のベトナムではないかと思われる。

  6. ところで市場経済への移行が完了した後の経済はどのような市場経済なのだろうか。一口に市場経済といっても非常に多様である。従って、移行完了のあかつきに出現する市場経済のタイプは決して一通りではありえない。

    IMFや世界銀行は、移行完了後の経済の姿について明示的な議論をしていない。特定の(おそらく米国型の)市場経済の現実を暗黙の前提にしているのかもしれないし、同じような移行プログラムを採用しても初期条件によって自ずから結果が決まると想定しているのかもしれない。これと対照的なアプローチとして、特定の性格の市場経済を到達すべきモデルとして想定しながら移行プログラムを作成するというアプローチも可能なはずである。目指す到達点としての市場経済の幾つかのモデルを想定した上で、その国の初期条件を勘案しながら一つのモデルを選び、その実現に有効な改革プログラムの内容を決めていくというアプローチである。

    こうして議論の視野を広げることによって、移行国にとっての政策選択の幅が広がり、より効果的な移行プログラムが可能になることが期待できよう。


全文の構成(PDF形式、 全5ファイル)

  1. 16ページ
    Executive summary別ウィンドウで開きます。(PDF形式 329 KB)
  2. 23ページ
    Part 1Theoretical and Empirical Issues of Transitional Economies
    1. 23ページ
      Chapter I Conceptual and Theoretical Framework
      1. 23ページ
        1 Introducution
      2. 38ページ
        2 Fundamental Issues for Transition Strategies
      3. 51ページ
        3 Transition Strategies
      4. 63ページ
        4 A "Pluralistic Approach" to Transition
    2. 70ページ
      1. 70ページ
        1 Introducution
      2. 70ページ
        2 Background
      3. 71ページ
        3 Historical Review
    3. 99ページ
      Chapter III Lessons of the Experiences in Asia
      1. 99ページ
        1 Diversity
      2. 101ページ
        2 Determinants of Macroeconomic Performance
  3. 105ページ
    Appendix
  4. 107ページ
    1. 107ページ
      Chapter I Cambodia
    2. 129ページ
      Chapter II People's Republic of China
    3. 174ページ
      Chapter III Lao P.D.R.別ウィンドウで開きます。(PDF形式 413 KB)
    4. 200ページ
      Chapter IV Mongolia
    5. 217ページ
      Chapter V Vietnam
    6. 242ページ
      図表別ウィンドウで開きます。(PDF形式 443 KB)
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