経済分析第174号
経済分析174号 1990年代の日本における消費・貯蓄行動について
-予備的貯蓄動機を中心とする理論展望と実証研究-

平成16年6月
  • 石原 秀彦(専修大学経済学部,前内閣府経済社会総合研究所客員研究員)
  • 土居 丈朗(慶應義塾大学経済学部,内閣府経済社会総合研究所客員研究員)

(要旨)

1.趣旨及び背景

消費・貯蓄行動に関しては,既存の膨大な研究の蓄積にも関わらず依然として未解明な問題があり,純粋に学問的に重要な研究対象である.さらに,1990年代における日本経済の低迷において,1995,6年の景気回復が,消費の本格的回復を伴うことなく短期間で終了し,1997年の金融危機に伴う景気後退の際には,所得減少の結果としての消費の減少ではなく,むしろ消費の自立的な減少が総需要の減少を通じた所得の減少の大きな要因となるなど,マクロ経済情勢の推移を理解するためにも,消費変動のメカニズムを理論的・実証的に再検証していくことが現在求められている。

2.目的及び手法

本書では、1990年代の日本における消費・貯蓄行動において,予備的貯蓄動機がどの程度働いていたのか分析する。予備的貯蓄動機とは,将来時点において万一所得が減ったりなくなったりしたときに消費ができなくなっては困るから,その万一に備えて現時点で貯蓄するという動機であり,将来所得に対する不安が強いほど,現時点での貯蓄が増え,その分消費が抑えられることになる。

消費・貯蓄の意思決定は,単なる1時点の問題ではなく,保有資産の収益や将来の所得の動向なども影響する,現在と将来という時点を越えた動学的な意思決定であることから,貯蓄率関数の推計に際して,計量経済学上の問題だけでなく,経済理論上のさまざまな問題を考慮する必要がある.そのような推定に関わる理論上の問題点を整理するために,第2章における実証研究に先立って,第1章において既存の消費・貯蓄理論の整理を行い,実証研究における注意点を明らかにする。

3.分析結果の主要なポイント

第1章(担当:石原)での既存理論の整理から得られた,後の実証研究と深い関係を持つと思われる論点は次の3つである。

  1. (1)予備的貯蓄動機は,Caroll (1992, 1997)の「緩衝在庫」モデルとして定式化することで,「消費のランダムウォーク」仮説に対する実証上の2つの問題点,「過剰感応」と「過剰平滑」をも解決する可能性がある。
  2. (2)ただし,「緩衝在庫」モデルでは家計の保有資産額が恒常所得額とは独立に消費・貯蓄行動に影響を及ぼすため,推計する際,説明変数に保有資産額を含める必要がある。
  3. (3)説明変数に保有資産額を含めない誤った推計では,予備的貯蓄動機を過小推計する可能性が高い。

第1章の結果を受けて,第2章(担当:土居)における貯蓄率関数の推計では,説明変数に家計の金融資産・負債残高を含めて分析を行った。その主な結果は次の4つである。

  1. (1)1990年代の貯蓄動向は,小川(1991)で提示された期待成長率の分散で表される「所得リスク」では説明できず,完全失業率や有効求人倍率の期待値で表される,雇用環境の見通しを反映した「雇用リスク」が説明力を持つ。
  2. (2)1990年代における雇用リスクが1980年代程度であったとして,雇用リスク要因によるフローの貯蓄額が消費に充てられていた場合どの程度GDPを押し上げたかを定量的に示すと,経済全体で雇用リスクによる予備的貯蓄が約1兆円なされており,当時の雇用不安が沈静化され予備的貯蓄が消費に回っていれば,当時のGDPを0.2~0.25%程度押し上げる影響があった。
  3. (3)理論的には,雇用リスクの増加が消費・貯蓄行動に影響を及ぼす経路として,不確実性の増大による予備的貯蓄の増加という経路の他に,将来の失業率の増加が期待将来所得の減少を通じて貯蓄を増やすという経路がありえる。しかし,雇用変動を表す指標と可処分所得,実質利子率の3変数からなるVARモデルでGranger因果性テストを行った結果,過去の雇用変動は実質可処分所得の変動の原因とはなっておらず,雇用リスクは予備的貯蓄動機を通じて貯蓄を増加させていることが確かめられた。
  4. (4)貯蓄率に対して家計の純金融資産残高は有意に負の影響を及ぼしており,消費・貯蓄動向の分析において家計のストックデータは不可欠である。

4.結び

本書の議論より,将来に関する不確実性が消費や貯蓄の行動に影響を与えることや,将来の雇用環境に関する「雇用リスク」に対する予備的貯蓄動機が,1990年代の日本の消費・貯蓄動向を説明する上できわめて重要であることが明らかとなった。特に,雇用リスクに伴う予備的貯蓄が,1990年代に消費が低迷した一因であることが確認された。この結果は,「内需の低迷」の要因を考える際に,重要な示唆を与えるものと思われる。


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全文の構成(PDF形式、 全15ファイル)

  1. 1ページ
  2. 6ページ
    参考文献
  3. 7ページ
    1. 7ページ
      1. はじめに
    2. 11ページ
      2. ライフサイクル/恒常所得仮説の基本的な考え方
      1. 11ページ
        2.1 ケインズ型消費関数の問題点
      2. 12ページ
        2.2 家計行動の動学的な側面
      3. 12ページ
        2.3 恒常所得仮説
    3. 14ページ
      3. 恒常所得の定義
      1. 15ページ
        3.1 完全予見の場合
      2. 16ページ
        3.2 不確実性が存在する場合
    4. 18ページ
      4. 恒常所得仮説の標準的定式化
      1. 18ページ
        4.1 家計の効用最大化と恒常所得
      2. 21ページ
        4.2 確実性等価(certainty equivalence)モデル
      3. 23ページ
        4.3 絶対的危険回避度一定(CARA)型効用関数の場合
      4. 23ページ
        4.4 消費成長率の予測不可能性
    5. 24ページ
      5. 確実性等価モデルに対する実証上の問題点
      1. 25ページ
        5.1 過剰感応(excess sensitivity)
      2. 28ページ
        5.2 過剰平滑(excess smoothness)
    6. 29ページ
      6. 理論モデルの拡張
      1. 31ページ
        6.1 持続的な消費(耐久財消費)
      2. 32ページ
        6.2 消費の習慣性(Habit formation)
      3. 35ページ
        6.3 選好ショックが存在する場合
      4. 36ページ
        6.4 労働所得における複数の異なる変動要因
      5. 38ページ
        6.5 流動性制約下にある家計の存在
      6. 39ページ
        6.6 世代重複モデル
    7. 45ページ
      7. 予備的貯蓄
      1. 45ページ
        7.1 予備的貯蓄の直観的な意味
      2. 49ページ
        7.2 「慎重度」(prudence measure)の理論
      3. 51ページ
        7.3 無限期間の効用最大化と予備的貯蓄
      4. 53ページ
        7.4 不確実性の変化と予備的貯蓄
      5. 56ページ
        7.5 「調整のずれ」と予備的貯蓄
      6. 59ページ
        7.6 相対的危険回避度一定(CRRA)型効用関数と「緩衝在庫」(buffer stock)モデル
      7. 74ページ
        7.7 予備的貯蓄に関する実証研究
    8. 83ページ
      8. おわりに
    9. 86ページ
      補論A 「5.1 過剰感応」における(18)式の導出
    10. 87ページ
      補論B 「6.1 持続的な消費」における(26)(27)式の導出
    11. 88ページ
      補論C 「6.2 消費の習慣性」における(29)(30)式の導出
    12. 90ページ
      補論D 「6.6 世代重複モデル」におけるψs > 0の証明
    13. 91ページ
      補論E 「7.3 無限期間の効用最大化と予備的貯蓄」における(59)-(61)式の導出
    14. 93ページ
      補論F 「7.4 不確実性の変化と予備的貯蓄」における(63)-(65)式の導出
    15. 93ページ
      補論G 「7.4 不確実性の変化と予備的貯蓄」における(68)-(70)式の導出
    16. 94ページ
      参考文献
  4. 97ページ
    第2章 貯蓄率関数に基づく予備的貯蓄仮説の実証分析
    1. [1]別ウィンドウで開きます。(PDF形式 375 KB) [2]別ウィンドウで開きます。(PDF形式 486 KB) [3]別ウィンドウで開きます。(PDF形式 244 KB) [4]別ウィンドウで開きます。(PDF形式 480 KB)
      [5]別ウィンドウで開きます。(PDF形式 511 KB) [6]別ウィンドウで開きます。(PDF形式 387 KB) [7]別ウィンドウで開きます。(PDF形式 465 KB) [8]別ウィンドウで開きます。(PDF形式 214 KB)
      [9]別ウィンドウで開きます。(PDF形式 449 KB) [10]別ウィンドウで開きます。(PDF形式 298 KB) [11]別ウィンドウで開きます。(PDF形式 278 KB) [12]別ウィンドウで開きます。(PDF形式 447 KB)
    97ページ
    1. はじめに
  5. 98ページ
    2. 貯蓄率関数の推定
    1. 98ページ
      2.1 所得リスクによる予備的貯蓄仮説
    2. 113ページ
      2.2 雇用リスクによる予備的貯蓄仮説
    3. 123ページ
      2.3 雇用リスクによる予備的貯蓄仮説の説明力
  6. 129ページ
    3. 雇用リスクが貯蓄に与えた影響
    1. 130ページ
      3.1 雇用リスク要因が貯蓄率に与えた影響
    2. 136ページ
      3.2 マクロ経済における雇用リスク要因による貯蓄
    3. 151ページ
      3.3 所得階級別の貯蓄行動
    4. 159ページ
      3.4 所得階級別の雇用リスク要因による貯蓄
  7. 159ページ
    4. 雇用リスクと予備的貯蓄
  8. 163ページ
    5. まとめ
  9. 165ページ
    補論A カールソン・パーキン法による雇用リスク・所得リスクの計測について
  10. 169ページ
    補論B 家計が保有する金融資産と負債の残高データの構築について
  11. 170ページ
    補論C Toda and Yamamoto のVAR モデルについて
  12. 172ページ
    参考文献
  13. 175ページ
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