経済の好循環をどう創るか

  • 樋口 美雄
  • 慶應義塾大学商学部教授
  • 聞き手:内閣府政策統括官(経済財政運営担当)付参事官(総括担当) 河越 正明

アベノミクスと政労使会議

― 今回の政策分析インタビューは、官邸で開催されている「経済の好循環実現に向けた政労使会議」1 に御参加いただいている樋口先生にお話を伺います。

政府が現在行っているアベノミクスの「三本の矢」の政策について、効果が出てきたことは数字的にも明らかになっているのですが、その中で課題となっているのが、日本経済の好循環をどのように創っていくかです。「経済財政運営と改革の基本方針について」2、いわゆる骨太方針の中では「三つの好循環」と言っていますが、一つ目は、現在の企業収益の増加が家計所得の増加に回り、支出の増加に来て、それがまた企業の収益に返ってくる。そういう好循環をどのようにつくるのか。二つ目は、マクロとミクロの好循環です。マクロ経済環境の好転が成長戦略の推進に役立ち、成長戦略の推進によりマクロ経済がよくなるというものです。三つ目は経済再生と財政健全化の好循環で、経済再生をすることが財政健全化の役に立つし、また、財政健全化をすることが経済再生にも役に立つ。

この「三つの好循環」のうちの一つ目で、本当に企業収益の増加が賃金に結びついていくかが正念場です。九月に「経済の好循環実現に向けた政労使会議」を立ち上げまして、先生にはそれに御参加いただいております。先生の目からご覧になりまして、アベノミクスの中で賃金引上げをどのように位置付けていったらよいのか、お話しいただければと思います。

(樋口) 第一の矢が金融政策、第二の矢が財政政策ということで、直接的な効果は社会にも広がってきていますが、間接的にマクロ経済の好転を通じて国民全体が成果の果実を分かち合い、所得を増やし、家計支出を増やしていく、これによって内需が拡大していくところまではまだ至ってないと思います。長い持続的な景気回復、あるいは経済成長を実現していくためにはその波及効果が必要で、そのために賃金引上げの取組を実施しようということになったと思います。

事実、第一、第二の矢の成果として、株価が上がったり、あるいは為替レートで極端な円高が是正されるという形で企業収益が増加しているわけですが、それによって賃金が上がってきているかというと、必ずしもそうではない面がある。少し給与が上がっているのは、どちらかというと残業時間が延びる形での上がり方ですから、基本的な給与の上昇は今後の課題で、そこに取り組もうということで会議が開かれるようになったのだと思います。

日本の雇用者の賃金は基本的に個別労使における賃金交渉で決められてきました。従来は、春闘という形で各企業とも同時期に労使交渉を行い、それが社会的に他企業へ波及するメカニズムが働いていたわけです。今でもそういった形は残っていますが、その波及効果は非常に弱くなっていると思います。例えば、従来、リーディングカンパニーが春闘で賃金を決定し、それが同業他社へ波及していったこともありました。さらには賃金が決定される上で物価上昇も考慮され、社会の動きが全体的に賃金に反映されていくメカニズムがありました。しかし、個別労使での賃金交渉という議論が強まる中で、それぞれの企業とそれぞれの組合にとって何がベストの選択なのか議論され、その結果、波及効果が失われてきました。そこで、今回は政府が相当にマクロ経済政策を実施する中で、個別労使だけではなくて、全体的に労働組合と産業界トップの方々に御参加いただき、そしてまた政府も入って、賃上げについて議論していくことになりました。

ただ、言うまでもなく日本は社会主義の国ではありませんので、政府が企業に賃上げを命じるということはありません。政労使会議の役割は、一つには雰囲気づくりということがありますし、さらには政策を提示しながら、情報共有を通じて、ミクロの個別労使交渉における合理性の結果が社会全体のプラスになっているだろうかということまで含めて議論いただくことだと思います。

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― 先生から今、日本の賃金交渉の仕組みは非常に分権的だということで、そこでミクロにとっての合理性がなかなかマクロにとっての合理性にならないという話をいただきました。各国の労使交渉をクロスカントリーで見ると、確かに日本の賃金交渉はかなり分権的なものに位置付けられると思いますが、他方で例えばアイルランドなど集権的なものがあります。オイルショックの経験を経て、インフレの下において、集権的な労使交渉か、または分権的な労使交渉の方が賃金上昇を抑制するのにはよく、産業レベルで交渉を行っていると賃金引上げ幅が大きくなって、なかなかインフレが抑えられないという議論があったと思います。以前のインフレの状況では分権的な労使交渉が好都合だったけれども、今ではむしろそのような交渉スタイルが賃金引上げを難しくしているということでしょうか。

(樋口) 賃金決定のメカニズムが分権的か集権的かは、一つは賃上げにどう影響を与えるか、もう一つは、労働市場の重要なパフォーマンスである失業問題あるいは雇用の創出にどう影響を与えるかという、二つの尺度から見なくてはいけないと思います。

日本の労働市場のパフォーマンスを考えると、例えば過去5年間ぐらいのGDP成長率を各国で比較してみると、やはりEUの国々においても成長率は低いですし、アメリカでも低い。日本も低いという形で、いずれも1%を切っているというところでは共通しています。しかし、その影響を見ると、日本を除いてアメリカやヨーロッパにおいては、生産性の向上を上回る賃金アップが起こっています。それに対し日本ではむしろ生産性の伸びの方が高くて、賃金は横ばいか、あるいは下がっていることが観測されます。この点、賃上げで見ると確かに日本のパフォーマンスは悪いのですが、一方で失業率を考えると、他国では急激に上昇する中で、日本はパフォーマンスが高いと評価できます。このように、日本は雇用を守る、その代わりに賃金を犠牲にしてきたというところもあります。一方で欧米は、企業側にも賃金上昇をせざるを得ない状況があったと思いますが、失業率は高まったということがあります。

なぜそういった違いが生まれているかを考えると、今おっしゃった賃金決定が集権的か分権的かという点で、分権的であればそれぞれの企業業績に応じて賃金を決めるのですから、業績が悪くなれば雇用を守るために賃金引下げも行われうることになります。また、労働市場の構造を考えると、日本の場合には外部労働市場が未整備であることから、どうしても何とか企業に残って雇用を守らなくてはいけない。企業から排出されてしまえば長期失業を覚悟しなくてはいけないですし、あるいはうまく就職できても賃金が低下してしまうことがあります。それだけ、何とか今勤めている企業で雇用を守ることに対する期待が大きかったのだろうと思います。

一方、アメリカなどでは、労働組合が平均賃金を引き下げるから雇用を守ってくれという申し入れを行ったとしても、果たして経営側がそれを飲むだろうかと考えると、必ずしもそれをよしとしないわけですね。それはなぜかというと、その企業の平均賃金が下がってしまいますと、優秀な労働者が他の企業に転職してしまう。外部労働市場が整備されていて転職コストが低いと、他の企業で業績がよいところがあれば、そちらに転職してしまうことになります。したがって、賃金を抑制して雇用を守ることが経営側としても非常に難しい。優秀な労働者が転職してしまえば、残っているのは生産性の低い人たちになるので、企業としても、平均賃金は下げてもそれ以上に生産性が下がってしまっては合理的ではないと考えます。このように、単に賃金決定が分権的か集権的かというだけでなく、どれだけ外部労働市場が充実しているか、労働市場の構造がどうなっているかによって違ってきます。

日本の場合は、それぞれ分権的に賃金決定が行われ、なおかつ外部労働市場が未整備だということで、賃金を犠牲にしても雇用を守ろうという選択が各企業で行われてきたと思います。

― 賃金決定が分権的かどうかということと、外部労働市場が整備されているかどうか、この二つの軸から、日本においては政労使会議のようなアプローチが必要だと考えられるということでしょうか。

(樋口) その結果、ミクロの合理性の追求がマクロの合理性につながっていない。まさに集計の誤謬が起こっている。特に景気が回復している中で企業収益が上がっている。企業の内部留保が高まってきた。しかし雇用面では、労働市場が次第にタイトになり、人手不足の基調が生まれている中において、それが賃金アップにつながらないという問題。リーマンショックの前にもそうでしたし、最近もこうした状況が生まれている。特に景気回復の本格化や持続可能性ということを考えると、今こうした問題解決の後押しをする必要があるのだろうと思います。

― 2006~07年当時には、かなりデフレ脱却間近までは来ましたが、その後残念ながら、リーマンショックがあって脱却できませんでした。当時なぜうまく経済の好循環が動かなかったのかという点と、それに比べて今回どうかという点についてお話をいただければと思います。

(樋口) 今回うまくいくかどうかはまだわかりませんが、2007年当時は、リーマンショック前の長期景気回復の中にあったとはいえ成長率が低かったことは事実です。また、その頃景気を引っ張っていた要因は内需というよりも外需、輸出が中心でしたので、どうしても為替レートの影響に引っ張られて、企業においては競争力を維持するために人件費を抑制する流れが強かったと思います。そのため、未曽有の長期景気回復と言いながらも、それが実質的に賃金アップにつながらないし、景気回復あるいは成長の果実が国民に還元されていないのではないかという議論が当時もあったと記憶しています。

その頃に比べれば、今回は内需が成長を引っ張りはじめている。さらには、政策に伴う円安によって輸出産業が好調になると同時に、消費もかなり伸びてきているし、企業収益の伸びに支えられる形で設備投資も増えてきているところがあって、その点は違うと思います。それに、当時と比べると、人手不足という追い風が少し起こってきています。建設業ですとか、あるいは福祉・介護といったところで、特に中小企業で人が採れないという状況から、人件費を抑制して価格競争で勝っていこうという今までのやり方に限界を感じるところも増えてきていると思います。また、少子高齢化がその頃より進展してきていることから、労働供給という側面から考えても、男性、若者とともに、女性あるいは高齢者にも働いてもらおうという基調が強まってきていますから、政府、企業と組合が賃金引上げをちょっと後押しする、一歩を踏み出すことが非常に重要な局面になってきていると思いますね。

― 第三回政労使会議3 でも、建設業界の方から建設業における雇用の仕組みをかなり変えよう、重層的な下請け構造を変えようとしているとの説明がありました。その意味では、人件費抑制のためにとりあえずコストカットするという今までの考え方から、少し先を見ながら、どのように経営を変えていくかを考え始めるようになったという気がいたします。

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(樋口) そうですね。日本はもともと長期的視点から企業経営がされている点が特徴だと言われており、人材の育成や活用についてもそういう特徴があると言われてきました。ところが、90年代の末頃からでしょうか、だいぶコーポレート・ガバナンスが変わったと言われています。例えば、株主に外国人株主・ファンドもたくさん入ってきて、それまでの長期的視点から、むしろどのように短期的に利益を上げることができるかが重要だと言われるようになった。手っ取り早いのはやはり人件費でコストカットすることだということで、実際にそれが行われてきました。当時を思い出すと、それ以前は企業がリストラを発表すると株価が下がるという動きであったのが、逆に97~98年頃からは企業がリストラを発表すると株価が上がり、発表しない企業、雇用を大切にするところでは株価が下がるという、従来とは違った動きが見られるようになりました。

短期的には人件費を抑えて企業収益が上がると思いますが、その一方で最近は、長期的な人材育成や能力開発、それに伴う能力の発揮はコストカットで対応できないことを多くの企業が感じるようになってきました。イノベーションについても、吉川洋先生が言われているように、プロセス・イノベーションだけではなくてプロダクト・イノベーション、つまり他とは違った新製品の開発などによって付加価値を高め、価格競争に巻き込まれない方法を多くの企業が模索するようになってきたと思います。


1 議事要旨等は次のURL参照:http://www.kantei.go.jp/jp/singi/seirousi/別ウィンドウで開きます。

2 平成25年6月14日閣議決定。

3 平成25年11月5日開催。

春闘に向けた課題

― 政労使会議でも、単に景気がよくなってきたという共通認識をつくるだけではなくて、もう少し長期的な視野でどういうことが望ましいか認識を共有することができると、長期的視点に立った企業行動も始まってくるのだろうと思います。そこで、非正規労働者がかなり増えてきた中で、今度の春闘がどのように進んでいくかという点に関心があります。

(樋口) 一つには、一時金で賃金が上がるのか、あるいは基本給が上がるのかは、景気への影響を考える上でも非常に重要ですし、持続可能性という点からも重要です。一時金ですと、経済学的にいえば変動所得の増加ということになります。これではやはり限界消費性向も低く、貯蓄に回る部分が多いのではないかと懸念されます。一方、恒常所得、つまり基本給が上がることになれば、一回限りではなくてその後も続いていきます。構造的に人件費が上がることから企業側の抵抗は強いと思いますが、少なくとも景気に対しては、やはり恒常所得の方が限界消費性向が高く、影響が大きいことを考えると、基本給の引上げが実現できるかどうかが注目されます。

同じように税制改正についても、法人税の引下げとなると、一年だけという期限付きでやるわけはないと思いますので、企業にとっては恒常的なプラスの話になりますから、それに対応するということであれば、やはり恒常的な賃金を引き上げることが期待されます。

御質問の非正規雇用の問題を考えますと、非正規労働者といっても、企業における呼称だけでもいろいろなタイプがあって、パート、アルバイトから始まり、契約社員、派遣、そして嘱託というような形があります。非正規雇用は、最初パートから増加し始めましたが、その頃は主婦のパート層が非常に多かった。これは、長時間働けないし、転勤もそれほど頻繁にできないということから、働く者にとっても選択肢の拡大という意味で歓迎された面があったと思います。しかし、仕事の内容や労働時間については正規雇用と同じだが有期であるという形で非正規雇用が増加してきて、そこに主婦パートだけではなく若者も入り、また世帯主も組み込まれていくという中で、正規雇用の選択肢がないのでやむを得ず非正規雇用になっている、いわゆる不本意非正規雇用が増えてきています。これは、企業側が人件費の固定費化や人件費総額を抑制したいというところからきていると思います。

ただ、このような非正規労働者が本当に臨時雇用、日雇いの方なのかということを考えると、有期雇用でも契約が更新されていくことで、結果的に一つの企業に勤めている年数が長くなっており、常用雇用の非正規労働者が増えてきました。企業の側も、戦力としてこうした方の活躍をかなり期待しているところが増えています。しかし、短期的な雇用ですと、新しいものをつくり出していくとか、改善を進めていくところにはなかなか発言できない。また、非正規雇用の場合は教育訓練も十分に受けられないことから、実態としては戦力になれないところがある。企業もむやみに有期雇用を増やすのではなく、仕事の内容に応じて雇用形態を変えていく必要がある。であれば、多様な形の正社員を増やしていくことによって、そちらに非正規雇用の方が展開していくことで、安定した、そして能力も十分活用できるような雇用になるのではないかと期待されています。

企業の側も、これ以上非正規雇用を増やした場合、人件費は安いかもしれないが、果たして企業の持続可能性を担保できるのかという点に疑問を持ちつつあります。さらには、労働市場がタイトになってくると、非正規労働者を募集しても、好んでそちらを選んでいる方は応募してくるでしょうが、いわゆる不本意非正規雇用の方はどうしても正規雇用の方に流れるわけで、最近は採用も難しくなっているという市場の力も働く状況になってきました。

― 市場がかなりタイトになってきたことにより、企業の合理的な選択の結果として、非正規雇用の正規雇用化が進んでいく側面があるということでしょうか。

(樋口) それもあるでしょうが、やはり企業としては好景気がいつまで続くのかという不安がありますから、なるべく人件費を変動費としておきたい気持ちも強いわけで、そのせめぎ合いでしょう。

デフレ脱却から中長期的な成長に向けての労働市場改革

― ヨーロッパでは非正規雇用が増えたことから、非正規雇用を正規雇用に変えようという制度改革もありましたが、あまりうまくいっていないとも聞きます。その辺りも踏まえて、日本はどのように労働市場改革を進めたらよいでしょうか。

(樋口) ヨーロッパでは、有期労働者として一定期間働いたなら、無期契約に移行するようにしているところも多い。こうすることにより、むやみに有期雇用を増やすのに歯止めをかけ、雇用主に本当にそれぞれに仕事が有期契約である必要があるかどうかを判断してもらうことを求める反面、その有期契約の上限内で雇い止めが起こる可能性も否定できない。我が国でもここら辺の議論が今、起こっているのだと思います。

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― 「経済の好循環実現検討専門チーム会議」4 で、日本総合研究所の山田調査部長が、労働移動をより進めるべきとの御指摘をされていました。企業としては、賃金は引き上げるとしても、より労働移動を進めるようにした方が望ましいという趣旨だったと思います。長期的に考えても、成長分野に労働力を動かしていくというのは当然進めなくてはならないことですが、今足下で起きていることは、サービス業など労働需要の強いところはむしろ生産性が低くて賃金が低いため、そちらに移動するとかえって給与が下がるので、みな移動したがらないという問題があります。そうした中、労働移動をどのようにうまく進め、かつ、それを長期的なパフォーマンス向上にどうつなげていくか、お話をいただければと思います。

(樋口) 労働力が余っている企業・産業から足りない企業・産業に移動することは、少なくともマクロ的に見て歓迎すべきことだろうし、個々の企業にとっても望ましいと思います。また、働く者にとっても、人が余っているところで仕事がないのに、肩身の狭い思いをして給与をもらうよりは、自分を必要とするところに移動することはプラスだろうという面もある。労働市場の流動化そのものは高く評価されるべきと思います。それを具体的にどう実現していくかで、現在の議論は出口、つまり解雇のところからスタートしていて、解雇規制を緩和すべきと言われているわけです。では、他国に比べて日本では解雇しにくいかと考えると、必ずしもそうではないというOECDのレポートもありますし、大企業と中小企業でも考え方が相当に違っている実態があると思います。

むしろ、失業なき円滑な労働移動を実現するためには、その一方で、企業の内部労働市場をどうするかを考えるべきではないでしょうか。つまり、日本の内部労働市場における企業と労働者の関係は、特に企業の側にいろいろ無限定な裁量権を与え、大企業ではその下で雇用は保障してくれる形になっていて、企業内異動は、職種の変更も含めて非常に頻繁に行われています。転勤や残業も一種そのようなところがあります。その結果として、個々の労働者にとってジョブがなかなか明確に見えない、あるいは選択できないというところがあります。個々人の立場からすると、今まで企業の裁量に基づいて自分も異動してきたにもかかわらず、企業の業績が悪くなったから整理解雇ですと言われた場合に、自分のできる仕事やキャリア形成が明確になっておらず、選択できないために、他の企業で仕事を探そうとしても、再就職が難しかったり、どうしても雇用条件が悪化せざるを得ない面があります。

ですから、内部労働市場つまり企業の中で、個々人のキャリア形成を認めていく方向に進んでいかないと、出口の解雇規制だけを議論してもなかなか労働市場の流動化は起こらないと思います。これらはやはり一緒に議論しなければならない。この動きが進むことで、労働者にとっては、企業に残るという選択肢も他の企業に転職するという選択肢もできてくるわけです。そこで初めて企業と個々の労働者の間で交渉上の地歩が対等になってきます。

企業の中でも、労働市場としても、あるいは政策的にも、個々人の身につけている職業能力をきちんと評価できるような仕組みをつくっていくためには、イギリスの全国職業資格(National Vocational Qualification(NVQ))のように、社会化して広がりを持たせていかなければならないのではないかと思います。そして、能力開発や学び直しも個々の企業が行うだけではなく、自分でできるような仕組みを社会がつくっていくこともあると思いますね。

― 日本企業は、労働者が幅広いジョブローテーションを通じて幅広い熟練を身につけ、それが生産性を上げるのに役立ってきたという議論があったと思いますが、先生の今のお話は、それをあまり広げ過ぎず、少し限定した方が望ましいということでしょうか。

(樋口) やはり個人が意識して仕事を選ぶことが重要だと思います。日本企業のジョブローテーションは、個人が自主的にジョブを選んでいるわけではなく、やはり企業側の都合で行われてきたわけです。結果的にはそれが能力開発につながっているのかもしれませんが、どこまでそれが意図的になされてきたのでしょうか。過去の成長期には、経済とともに企業も成長し、社内において新しい部門や業務が増えていったわけです。そうであるがゆえに、社内異動によって能力を活用できるところがありました。しかし、最近は企業が成長しない中で雇用をどのように守るかというところで、人件費の削減という形で非常に内向きになっているところがあります。また、ジョブもある程度広がりを持たないと能力は向上していかないですから、ある程度幅のある柔軟なジョブの概念が望ましいことになります。

要は、個人が自らステップアップしていくチャンスを作れるかどうかという点と、その上で個人が意図的にステップアップしていくインセンティブを高めることが求められると思います。意識的にこの点に取り組んでいる企業がここのところ急に増えていると思いますので、それが社会的に実現できてこそ、労働者の自己責任や、ワークライフバランスの議論もできるようになると思います。「多様な正社員」の議論も、こうしたことにつなげていかなければならない。

前に御質問の中で出ていたサービス業ですが、確かにアメリカの産業別全要素生産性(TFP)と比較すると、日本は、製造業・機械産業などではアメリカよりもずっと高いのに、第三次産業を中心にアメリカより低いところが非常に多いわけです。だからといって、日本のサービスの質がアメリカに比べて見劣りするかというと、決してそうではない。これには、サービスの質と料金が必ずしも対応しておらず、サービスが安過ぎるというところもあります。しかし、値上げをすると他の企業に顧客が持っていかれるという危機感がある。サービス自体が企業を超えて非常に画一的なものになり、価格競争に引き込まれているところがあります。そこで、どうすれば付加価値を高められるのか、高い値段でもサービスを買ってもらえるのかという意識が非常に重要になってきて、他の企業では追随できないとか、あるいは観光などでは他の地域ではまねできないような独自性を出すこと。これも一種のプロダクト・イノベーションだと思いますが、そういったものが求められます。

ある日本のホテルで、アメリカ人がベルマンにすごくよいサービスをしてもらったのでチップを払おうと思ったら、「それは困る」と断られたと。なぜサービスに対して対価を受け取らないのかと言われたという話もあります。日本だとサービスはただという意識があるのですが、サービスほど労働集約的な仕事はないわけですから、よいサービスに対してはそれなりの対価を払うことも必要ではないでしょうか。

― ただだから、もしくは安いから、サービスに対してあまり文句を言わないというところもあるでしょうから、対価を払うようにすればかなり違ってくるかもしれません。

(樋口) そうですね。外国人の友人が日本の郵便局へ行って、列ができていないのはどうしてなのかと言っていましたけれども、そういう意味でのサービスも日本はかなり質が高いと思います。質の高いサービスに料金を払うのは当然だと思いますが、それを安くすることで何とか顧客を確保しようとしてきたところがあると思います。しかし、それだけをしていたのでは限界があります。

各企業ではいろいろな取組が行われつつあって、必ずしも安い値段での競争ではなく、サービスの質を向上させ、それによって競争しようとするところも出てきています。今まで価格という一次元で競争をしてきましたが、それを多元的な競争に切りかえていくことが重要なのではないでしょうか。

― 「こういうものはただでやってくれるものだ」という社会的な通念があるところで、突然対価を求めるのもなかなか難しい話のような気もしますが、その点についてはどうでしょうか。

(樋口) ただ、デパートでは配送やラッピングがただだったところで、バブル時に人手不足で人件費が高騰する中、きちんと対価を取るようになったということがありました。ですから、効率性というと何となく人を減らしてということになりますが、人をどのように大切に使うかということも非常に重要な視点ですし、これはワークライフバランスの議論ともつながってくるのですが、会社にとっても、あるいは働いている人にとっても、また社会にとっても時間は有限です。したがって、時間を大切にするような働き方、つまり企業にとっても、いかに付加価値を高められるように時間当たりの効率をよくして無駄なことを減らしていくかということも重要です。

― ただの場合はどこかでその分の料金が取られているわけですから、その意味ではただほど高いものはないわけで、適正な対価を得ることが重要だということでしょうか。

(樋口) そうですね。やはり労働は貴重な資源だというところに議論が戻るのだと思いますね。

(本インタビューは、平成25年11月6日(水)に行いました。)

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